みなさんこんにちは。
田中角栄…ではございません。
講談師の田辺鶴英でございます。
コウダンシといっても、「住宅コウダン」とか、「道路コウダン」という硬いものばかりではございません。
日本の伝統話芸・講談、落語、浪曲の中の講談でございまして、歴史をわかりやすく話す職業でございます。
歴史といえば、神世の時代から現代、未来まで、題材も神仏から恋愛、仇討ち、出世話、戦記物、環境問題、ゴミ問題、その他モロモロ。老人問題といえば介護講談と、タブーだった介護の話を講談にしたのは私が元祖でございます。
そんな私が講談師になったキッカケは、義母の介護を終えた頃、後に師匠となる田辺一鶴(TVで見たことがあるヒゲのおじさん)が夢に登場したことからです。
その2〜3日後の新聞で「講談師 田辺一鶴の『修羅場道場』開く!やる気のある者はプロに」の記事を見つけ、早速見学に赴き、その場で入門しました。夢のお告げとはこのことか。私は講談師になったわけです。
講談師を目指してのまず始めは、軍記物の三方ヶ原軍記で語る、話す、読む、謡うなどの調子を学び、腹から声を出すことで声を鍛えることからです。
家で「そもそも三方ヶ原の戦いは 頃は元亀3人壬申年十月十四か〜」パンパン!と大声で言ったりしますと、当時小学二年生の一人娘が、“門前の小僧 習わぬ経を読む”の諺どおり、この長い文章を耳で覚えてしまいます。
(その娘は師匠の田辺一鶴に見初められ、ちびっ子講談師として活動しましたが、どうもイヤイヤだったらしく、高校卒業と同時にニュージーランドと韓国へワーキングホリデーで青春を謳歌すべく旅立って行ったのでした。)
私はといいますと主婦講談師として前座を終え、二つ目になった頃、「豊島区男女平等推進センターエポック10」で行われていた「男の介護教室」の見学に行きました。
そこでは福祉先進国のビデオを上映しておりまして、上映後に感想を求められたので「私の実母、義母の介護のときに日本もこれだけ進化していれば、もっと明るい介護ができたのではないかしら?」といいましたところ、「あなたの介護経験を講談にして今年の6月6日エポックまつりで発表してください」と、はじめて仕事の依頼をされたのです。それが介護講談でした。


この介護講談、客の反応は介護経験者からは圧倒的な拍手をいただきましたが、男性や介護経験のない方からは不評でした。
宅老所、デイサービス、老人ホーム、医者、看護師、認知症を抱える家族の会の方、と多くの方と出会い、介護講談は揉まれ、楽しめるものになりつつありましたが、まだ欠けているものがありました。それが、今回3回目となる義父の介護で「目からウロコ」の経験をさせていただいているのです。
“二度あることは三度ある”とか“三度目の正直”とか申します。
実母の病院での介護、義母の入退院のくり返しの同居介護を経験させていただいた私に三回目の介護がやってきました。

時は平成十八年一月十六日午前八時二十五分、電話のベルが鳴りました。
義父:「タスケテクレー!何がなんだかワカラン!ウチニハゼッタイ帰ラン。タスケテクレー!」
十三年前から愛人宅に行ったっきりの義父の声が…。続いて電話は愛人に代わり
愛人:「ずっとこうなんです。正月にトイレで倒れてずっとオムツして、歩けなくなって、夜中も大声で怒鳴るんで近所迷惑なんですよ。なんとかしてください!」
義父の帰る日を虎視眈々と狙っていた私は「その日がやってきた!」とばかり、介護タクシー(担架付き)を呼び、義父を迎えにいくことにしたのです。